
本記事は、海賊ライフ・シミュレーションゲーム Corsairs Legacy をMauris studioが開発する過程で作成した資料です。海洋テーマ全般、そして特に海賊ゲームの魅力を広めることを目的としています。プロジェクトの最新情報は公式サイトのほか、YouTubeチャンネル、およびTelegramでご覧いただけます。
この資料では、キリル・ナザレンコ(Kirill Nazarenko)が、著名な海賊ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)の物語を語ります。彼はキャプテン・ブラッド(Captain Blood)の原型となり、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)」やゲーム「Sea Dogs」に登場するキャラクター像にも影響を与えた人物として知られています。
今回は、その海賊ヘンリー・モーガンについてお話しします。まずは、モーガンが実際に活動した17世紀前半〜中頃、特にイングランドを中心とするヨーロッパの政治状況を簡単に整理しておきましょう。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か? キリル・ナザレンコ/キャプテン・ヘンリー・モーガン
ヘンリー・モーガンは1635年にウェールズで生まれました。ウェールズは当時のグレートブリテンにおいて辺境にあたる地域で、彼の誕生から間もなく国内で内戦が勃発します。
最初のイングランド内戦(1642〜1646年)が起こり、その後短い休止期間を挟んで1647〜1649年に再開されます。対立したのは、絶対王政を志向した国王チャールズ1世(Charles I)率いる王党派と、国王に反対する議会派で、後者は最終的に著名な政治家オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が主導する形となりました。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か? キリル・ナザレンコ/政治家オリバー・クロムウェル
クロムウェルは内戦を勝利に導き、その結果、チャールズ1世は1649年1月に処刑されました。
イングランドでは共和国が宣言され、これはコモンウェルス(Commonwealth of Nations)と呼ばれました。現在「コモンウェルス」という語は、旧イギリス植民地のうち本国と一定の結びつきを保つ国々の枠組みを指すことが多いですが、当時は「共和国体制」と言うのが適切でしょう。この共和国は1660年5月まで続きます。クロムウェルは1658年に亡くなっており、後継として実質的な最高権力者となった息子もまもなく追放されました。
軍事クーデターが相次いだ末、1660年5月、モンク将軍(General Monck)が王政復古を実現し、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世(Charles II)をイングランドに招きます。チャールズ2世はその後25年間統治しました。これらの出来事は王政復古(Restoration)と呼ばれます。
内戦期のイングランドは深刻に分裂しており、ウェールズは国王を支持する地域のひとつでした。王党派が敗北した後、地域住民の一部は迫害を受けたはずですが、ヘンリー・モーガンの出自については分からないことが多いのが実情です。
モーガンは(のちにジャマイカ副総督になった頃)自らをジェントルマンだと称しました。しかし17世紀のイングランドでは、階級の境界は大陸ヨーロッパほど硬直しておらず、貴族として認められるには本来は文書が必要でした。とはいえ当時のイングランドでは結局のところ金銭がものを言い、ジェントルマンらしい生活ができる財力があれば「ジェントルマン(=当時の感覚では一種の貴族)」として扱われる余地がありました。逆に、資金がなければ認められにくかったのです。
一方でイングランドには、通常のジェントルマンよりはるかに高い地位にある爵位貴族も存在し、これは当然ながら爵位を示す文書が必要でした。しかし一般の「紳士階層」は比較的開かれた社会的カテゴリーであり、裕福な商人や富裕農民がジェントルマン層に加わることもありました。しかも当時、貴族に軍務が義務づけられていたわけではなく、イングランドのジェントルマンはさまざまな職に就くことができました。とはいえ多くの場合、規模は大きくないにせよ土地所有者であることが一般的です。
ヘンリー・モーガンは本物のジェントルマンの息子ではなく、いわゆるヨーマン(yeoman)の息子だった可能性もあります。
ヨーマンとは、自作農として自立しつつ、比較的大きな土地を保有し、雇い人を抱えることもできた富裕農民層を指します。
さらに下の層として、地主から比較的安定した条件で土地を借りるフリーホルダー(freeholders)がいます。より権利が弱い層がコピー・ホルダー(copyholders)で、短期間かつ不利な条件で土地を借りる人々です。もちろん土地を持たない農業労働者もいました。
ヨーマンは土地を借りるのではなく、自分の土地を所有していました。そのためヨーマンとジェントルマンの境界はかなり曖昧でした。とはいえ、モーガンはやはり何らかの農民家系、しかも富裕農民の家系から出たと考えるのが自然でしょう。
1650年代後半(1658〜1659年頃)、ヘンリー・モーガンはアメリカへ渡り、まずバルバドス(Barbados)に辿り着きます。ここでカリブ海の地図を思い浮かべるのが重要です。バルバドスはカリブ海の東側に位置し、同時期にイギリス領の中心、そしてイギリス系海賊/私掠船(corsairs)の主要拠点となっていくジャマイカとはかなり距離があります。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/バルバドス島
なぜヘンリー・モーガンはバルバドスに行き着いたのでしょうか? 本人はこの点について多くを語りませんでした。ここで思い出しておきたいのは、ヘンリー・モーガンや海賊一般について、私たちが知っていることはそもそも多くないという事実です。というのも、公的機関が海賊に強い関心を示したのは、海賊が裁かれ絞首刑にされたときであり、もし有罪にならず処刑もされなければ、裁判記録からはほとんど情報が得られません。植民地当局の書簡も残っていますが保存状態は良くなく、さらに17世紀イングランドの国家機構は十分に発達していませんでした。
フランスやロシアと比べると、フランスやロシアの方が地方の国家機構が整っており、役人も多く、文書も多く作成され、中央から地方への統制も明確でした。17世紀のシベリアの遠隔地に関してさえ、私たちは文書からかなりの情報を得ることができます。一方で、文書は容易に失われることもありました。
しかしイングランドでは官僚制が比較的弱く、総督のような人物が公式報告書ではなく、植民地行政を監督する宮廷人へ私信を書いていたこともありました。そのため文書は、大陸ヨーロッパのように国家公文書館に収蔵されるのではなく、私的コレクションに散在している場合があります。イングランドではフランスと異なり、国の文書庫を国家が一括で「国有化」するようなことが歴史的に起こらなかったため、重要な公文書が私人の手にあり公開されないケースも少なくありません。あるいは相続人が関心を持たず、そもそも保存されないこともあります。
そのため、カリブ海の海賊、とりわけ私掠船(コルセア)とヘンリー・モーガンについて私たちが比較的詳しく知るのは、17世紀中頃以降、そして何よりオリヴィエ・エクスケメリン(Olivier Exquemelin)の著作による部分が大きいのです。おそらくオランダ人であった彼はカリブ海に渡り海賊に加わったのち、『アメリカの海賊(The Buccaneers of America)』を著しました。この本は瞬く間にヨーロッパ諸語へ翻訳され、17世紀後半にはヨーロッパ全域へ広まっていきます。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/エクスケメリン『アメリカの海賊』
エクスケメリンの記述によって、私たちはモーガンやバロン(Ballon)など当時の著名な海賊について知ることができます。しかも現代の歴史家は、検証できる部分においてエクスケメリンの証言が概ね正確であることから、彼の記述を比較的信頼する傾向にあります。
それでも、なぜモーガンはアメリカへ渡ったのでしょうか? 彼は決して良い形で渡ったのではありません。彼は船でバルバドスへ送られ、3年間奴隷同然の身分(年季奉公)として働かされたのです。
17世紀のアメリカでは黒人奴隷制だけでなく、白人に対しても奴隷的拘束が存在し、未来のアメリカ合衆国やカリブ海の英領植民地(そして程度は小さいものの仏領植民地)で広く見られました。捕虜や囚人が奴隷として扱われることもありました。
ここで思い出されるのが、ラファエル・サバティーニ(Rafael Sabatini)の小説『キャプテン・ブラッド:彼のオデュッセイ(Captain Blood: His Odyssey)』です。この作品はヘンリー・モーガンの冒険の一部を下敷きにしており、キャプテン・ブラッドも王党派の裁判で反逆罪に問われ、奴隷としてアメリカへ流刑にされます。
実際、当時は旅費を払えない人が3年または7年の契約に署名し、奴隷同然の条件で働くことも珍しくありませんでした。所有者が運賃を肩代わりし、本人は契約満了まで生き延びられないことすらありました。
また信頼性は高くないものの、モーガンがバルバドスで刃物職人(cutler)のもとに3年間雇われていたという情報もあります。富裕農民、ましてジェントルマンの息子なら奇妙にも思えますが、当時は何が起きても不思議ではありません。
- モーガンが何らかの犯罪を犯し、裁判を逃れてアメリカへ渡った可能性。
- 内戦に関わる出来事に巻き込まれた可能性(1658年時点で23歳であり、当時の感覚ではすでに独立して生きていてもおかしくない年齢)。
- 軍事経験を持ち、内戦そのものではないにせよ1650年代後半の軍事行動に参加した可能性。
- 何らかの政治的陰謀に関与した可能性。
しかし確かなことは分かりません。そして王政復古後、イングランドの状況は激変しました。革命参加者の多くに恩赦が出た一方で、チャールズ1世の死刑に賛成票を投じた者などは例外とされ、残酷な処刑が行われました。さらにクロムウェルやその協力者の遺体が墓から掘り起こされ、四つ裂きにされ焼かれるなど、革命への報復が象徴的に示されたのです。
したがって、1660年以降に反王党派的な行動を自慢するのは危険でした。モーガンが何かに関わった可能性は否定できませんが、私たちはそれを知りようがありません。
分かっているのは、彼が1658〜1659年頃にバルバドスに現れ、1661〜1662年頃に3年契約が満了して自由の身になり、その後まもなく海賊(私掠)としての道を見出したということです。
この時期のカリブ海の政治状況はどうなっていたのでしょうか? 1654年、クロムウェルは艦隊を派遣してイスパニョーラ島(ヒスパニオラ)の征服を試みますが、その前段として1652〜1654年に第一次英蘭戦争(Anglo-Dutch war)という大規模な海上戦争があり、戦争終結後に英艦隊が解放されました。
クロムウェルは戦力を遊休させないためアメリカへ送り、どこかの植民地を奪取しようとしました。しかしイスパニョーラ島(現在のハイチ)攻略は失敗し、スペイン側の抵抗に遭います。そこでイギリスはジャマイカを奪取しました。ジャマイカも抵抗しましたが守備隊は敗れ、1654年以降、事実上ジャマイカはイギリス領となります(ただし法的整備は曖昧なままでした)。
また1660年の王政復古後、スペインとイギリスの間で和平条約が結ばれますが、条約はカリブ海の状況を明確に規定しませんでした。そのため戦争状態は実質的に継続し、スペインは「アメリカは全てスペインのもの」という立場を崩しませんでした。
しかし現実には、17世紀中頃には北米沿岸にオランダ・イングランドの植民地が成立しており、後のアメリカ合衆国へ繋がっていきます。例えばニューヨークはオランダによってニューアムステルダムとして建設され、のちにイングランドに奪われました。
そしてカリブ海では、ジャマイカが極めて重要な拠点となります。ジャマイカはカリブ海のほぼ中心に位置し、キューバとイスパニョーラ(ハイチ)に近く、スペイン領の「心臓部」に接しています。さらにポルトベロ(パナマ地峡)からハバナへ至る航路の要衝でもあり、ハバナに集積された財宝がスペインへ向かう際(あるいはサンティアゴ・デ・クーバへ向かう際)に通過する重要ルート上にあります。ジャマイカはまさにその道の上にあり、スペインがイングランドの拠点化を嫌ったのは当然でした。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/17世紀、財宝を積んだ船が通ったカリブ海の航路
そのため1660年だけでなく、関係改善を試みた1667年の段階でも、カリブ海問題は結局まとまりませんでした。
1670年になってようやくマドリード条約(Treaty of Madrid)が締結され、スペインはカリブ海におけるイングランド植民地の存在を一定程度受け入れます。ただし1670年条約の文言自体が、ジャマイカの帰属を明確に「英領」と書き切っているわけではありません。それでもイギリス側は1670年以降ジャマイカを公式植民地と見なしました。
まさにこの、ジャマイカの法的地位が曖昧な時期にモーガンの活動は重なります。国家が弱く、法制度が不明瞭で、秩序を維持する力も不足している場所では、あらゆる種類の「ギャング的組織」が生まれやすいものです。ここで海賊を過度にドラマ化する必要はありません。
例えるなら、旧ソ連圏の国々で1990年代を生きた人々は、組織犯罪グループがいかに秩序を「代替」し得るかをよく知っているでしょう。大規模で有効な犯罪組織はよく組織化され、明確な統治と規律を持ち、場合によっては国家機能を肩代わりすることすらあります。カリブ海も似た構造を持っていました。
ここでもう一つ重要な島に注目する必要があります。それがイスパニョーラ島(ハイチ)の北岸沖にあるトルトゥーガ島(Tortuga)で、これはフランスが拠点としていました。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/トルトゥーガ島
1660年代、ジャマイカとトルトゥーガはカリブ海の海賊活動の二大中心地となります。重要なのは、これは純粋な意味での「海賊行為」ではなく、国家権力の空白地帯で成立した私掠(コルセア/corsairs)だという点です。
彼らは英仏当局から私掠許可状(corsair patents)を受け取り、公式には軍の一部、つまり英仏艦隊の一員と見なされ、敵国(この場合スペイン)の船を拿捕して通商を妨害する義務を負いました。略奪品の一部を当局に上納する義務もあり、理屈の上では許可状を剥奪されるという「懲罰」もあり得ます。しかし実際には、トルトゥーガのフランス総督やジャマイカのイギリス総督には十分な実力がなく、海賊(私掠者)と交渉せざるを得なかったのです。
1650〜1660年は、当時最も有名なフランス系海賊アラネ(Allaney)の活動期であり、そしてヘンリー・モーガンの活動が重なる時期でもあります。1665年、ヘンリー・モーガンについての最初の確実な記録が現れ、彼は海賊マンスフェルト(Mansvelt)の戦隊で船長を務めていました。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/海賊マンスフェルト
「戦隊」と聞くと大型帆船を想像しがちですが、実際の海賊は非常に小型の船で行動しました。モーガンが保有していたことが知られる最大級の船でも、排水量120トンほどで、現代基準では小さな船体です。17世紀の基準でも小型の1〜2本マストの船に過ぎません。
さらに小型の海賊船は排水量10〜15トンほどで、ほとんど外洋用の小舟のようなもので、航海は非常に危険でした。しかし私掠者たちは海況や天候の読みが優れており、そうでなければ生き延びられません。もっともここは北極海ではなく熱帯です。嵐の季節でなければ、まだ幾分ましだったとも言えます。
1665年当時、モーガンが数百人を率いていたと考える必要はありません。小型船に乗る海賊は数十人規模でした。しかし、その小さな「一団」の首領であったこと自体が、モーガンが権威を持ち仲間内で頭角を現していたことを示します。
1667年末〜1668年初頭にマンスフェルトは死亡します(スペインに捕らえられ処刑された、あるいは毒殺された可能性があります)。マンスフェルトの死とモーガンを結びつける理由はありません。マンスフェルトの死後、彼の一味はヘンリー・モーガンを提督(admiral)に選出し、モーガンは数百人規模の大きな海賊集団の長となりました。カリブ海の大要塞でさえ守備兵は数百人規模でしたから、これほどの人数は確かに強大な戦力です。
モーガンの経験について言えば、マンスフェルトの指揮下でトルヒーヨやグラナダといったスペイン都市への遠征に参加したことが確実視されます。その後マンスフェルトはキューバのスペイン領を攻撃しようとして敗北しました。
そもそもスペインのアメリカ植民地とは何だったのか? それは非常に広大であり、スペインは湾や沿岸の村をすべて守ることはできませんでした。防備と兵力は、植民地支配の要所に集中され、要塞化も時期によって段階的に進みます。
スペインが深刻な脅威に初めて直面したのは、フランシス・ドレイクの時代、つまり16世紀後半の始まりでした。イングランドによるスペイン領攻撃が起きると、スペインは初めて石造の要塞建設に本格的に着手し、ある程度まともな火砲を備えました。ちなみに太平洋側では、それ以前は木柵すらほとんど存在しませんでした。スペインは「誰も来ない」と信じていたからです。
しかし17世紀の50〜60年代の出来事が、スペイン当局に新たな要塞建設を促します。この時期、多くの砦が建設され、ヨーロッパ式の正規要塞に近い姿になっていきました。同時期、イギリス側でもフォート・チャールズ(Fort Charles)のような要塞が築かれています。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/フォート・チャールズ
さらに、ジャマイカのポート・ロイヤル(Port Royal)の都市計画図も存在します。ポート・ロイヤルはカリブ海の基準では大都市で、人口は約7,000人に達していました。ヨーロッパの首都が数十万〜100万人へ向かいつつあった時代を考えれば小さいですが、当時のジャマイカでは非常に大きく重要な都市であり、英領アメリカ植民地の中でも最大級の都市でした。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/ジャマイカのポート・ロイヤル都市計画図
当時ロンドンやパリの人口はすでに50万人を超え、100万人に近づきつつありました。ヨーロッパには人口10万人を超える都市が数多く存在しました。それに対して人口7,000人のポート・ロイヤルが「大都市」と見なされたのが、カリブ海の規模感です。
スペイン側の都市はやや大きく、例えばサンティアゴ・デ・クーバやハバナには1万5千〜2万人が住んでいましたが、それでも全体としては小都市です。
ポート・ロイヤルは岬に位置し、周囲を五つの要塞に囲まれていたため陸上からの攻撃が難しく、海からも堅固に守られていました。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/17〜18世紀のポート・ロイヤル
もちろんスペイン領にも、この時点で一定の防衛施設は存在しました。例えば旧パナマ(Old Panama)の塔は、要塞塔というより鐘楼に近いものです。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/旧パナマの塔
モーガンが襲撃したパナマ地峡のサンティアゴ・デ・ラ・グロリアの砲台、あるいは同じく地峡にあるサン・ロレンソ(San Lorenzo)の砦など、スペイン側の防備も存在しました。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/パナマ地峡サン・ロレンソ砦
この砦は二つの半稜堡を持ち、前面には接近路を守るための外郭防御(プロヴェリン)に相当する構造があり、そこに大砲が据えられていました。全体は正六角形に近い規則的構造で、即席の陣地ではなく正規の築城物です。もっとも大砲の数は多くなく、良質の装備はヨーロッパ本土へ優先的に回されたため、砲自体は旧式であることもありました。カリブ海には包囲砲を伴う大軍はほぼ存在しませんでしたが、海賊対策としては十分に堅牢な防備だったと言えます。
サンティアゴ・デ・ラ・グロリアの砲台も規則的な構造を持っていました。どんな要塞も、守備隊がいて初めて力を持ちます。守備が弱かったり弾薬が不足していれば、要塞の防衛力は大きく低下します。
それでは、私掠提督となったヘンリー・モーガンの冒険に戻りましょう。 モーガンの肖像は複数伝わりますが、多くは時代が下ったもので、エクスケメリン『アメリカの海賊』に掲載されたモノクロの原版銅版画がよく知られています。彩色版もありますが、空想的表現が混じっている可能性は否定できません。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/キャプテン・ヘンリー・モーガン(エクスケメリン『アメリカの海賊』の銅版画)
海賊提督となったモーガンは独自の活動を開始します。最初の大きな行動として、1668年にキューバのプエルト・プリンシペ(Puerto Principe)を攻撃し、3月に上陸(現在のカマグエイ)します。小規模なスペイン部隊を破った後、都市は降伏しました。モーガンは食料補給のため、身代金として5万ペソと牛500頭を要求します。スペイン側は、守りを固めず降伏した指揮官と当局に責任があると考えました。
これはよくある話です。スペイン側を無能な木偶の坊のように描く必要はありませんが、植民地勤務は厳しく不名誉でもあり、必ずしも優秀な指揮官が配置されるわけではありませんでした。積極的な指揮官はヨーロッパ本土で用いられ、植民地は失策を犯した将校や評価されなかった将校の「左遷先」となることもありました。また植民地で功績を立てて出世する機会も限られていました。例えるなら、18世紀にシベリアへ流された人物が役職を得ても、ヨーロッパ側の州知事より条件が悪いのと似ています。したがって海賊に対峙したスペイン側首脳が全員天才だったと考えるのも、逆に全員無能だと考えるのも正確ではありません。
一方、海賊側は能動的で、攻撃場所と時間の主導権を握っていました。スペイン側は常に待ち続け、いつ攻撃されるか分からないまま備えねばなりませんでした。
そしてプエルト・プリンシペ略奪の後、当時のキューバとイスパニョーラは海賊にとって手強すぎたため、私掠者モーガンはキューバへ再び戻らず、攻勢の中心をパナマ地峡方面へ移します。そこで彼は特にポルトベロ(Portobelo)を襲撃します(現代ではパナマ側の地名として知られます)。襲撃はスペインに撃退されかけますが、ある時点でスペイン側が絶望して降伏し、一部の兵は総督とともに最後まで抵抗して戦死しました。
ポルトベロ占領後、パナマ総督は奪回を試みますが敗北し、結局モーガンは身代金を得て撤退します。この頃スペイン側では「次はパナマに進軍するのではないか」という懸念が生まれました。
ポルトベロはパナマ地峡の北岸(カリブ海側)に位置します。一方パナマ市は地峡の南岸、太平洋側にあり、ペルーで産出された銀がパナマへ運ばれ、地峡を越えて北岸へ運ばれ、そこからキューバ経由でスペインへ送られるという流れの中で、パナマは極めて重要な中継点でした。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/17世紀、銀を運んだ航路
こうして「パナマ攻略」という発想が海賊たちの間に生まれていきます。
戦利品としては、1人あたり約500ペソ(ピアストル/ターラー)ほどを得たとされます。
ターラー(Thaler)は銀貨で、純銀換算で27.2gとされます(実際には純度の問題があるため重量はもう少しあります)。直径は40mm強で、ソ連時代の記念ルーブルより大きく、厚みもある硬貨です。
当時の購買力を考えると、商船隊のイングランド船員は月給が約6ターラーほどでした。日雇い労働者にとっては非常に高い賃金で、土木・建設の労働者は月に1〜2ターラーで、しかもその金額で衣食(質は悪いですが)を賄えると見なされていました。
例えばイングランドの兵士は当時、1日2ペンス、つまり月に60ペンスを受け取っていました。これは5シリングに相当し、ちょうど1ターラー/月程度です。
したがって500ターラーは大金ではありますが、カリブ海では物価がヨーロッパの10倍に達することもあり、必ずしも「人生をやり直せるほどの巨額」とは言い切れません。飲み代に消えてしまうこともあったでしょう。
その後、パナマを攻撃する計画が持ち上がり、私掠者ヘンリー・モーガンは遠征準備を進めます。
1669年初頭、遠征隊を集めますが、結局パナマではなくマラカイボ(Maracaibo)を攻撃します。これはベネズエラの主要なスペイン都市で、マラカイボ湖へ通じる水路沿いに位置します。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/17世紀地図に描かれたマラカイボ
この水路の入り口には島が点在する狭い航路があり、複数の砦が置かれていました。しかし海賊は障害を突破します。注目すべきは、このマラカイボ遠征が「王の私掠者」として行われ、モーガンの戦隊が王立フリゲート艦オックスフォード(Oxford)によって増強されたことです。遠征に参加した最大の海賊船はトルトゥーガから来たフランス船で、24門砲を備えた比較的小型のフリゲート「カイト(Kite)」でした。
1669年春、英仏の海賊(私掠者)は奇襲でマラカイボを占領します。しかしその直後、スペインの3隻編成の戦隊が水路へ到来し、海賊が奪ったラ・バラ砦(Fort La Barra)を奪回して、モーガンの戦隊を湾内に閉じ込めました。
スペイン側は「略奪品を返し、捕虜の奴隷を解放して立ち去れ」と要求しますが、海賊は拒否します。それでは裸足同然で帰ることになり、屈辱だったからです。交渉は成立せず、4月末、海賊戦隊は突破戦に出ます。
スペインは火船(fireship)を投入し、スペイン旗艦に取り付いて炎上させました。他の2隻は退避を試みますが、1隻は座礁、もう1隻は拿捕され、こうしてモーガンは突破に成功します。ただし外洋へ出たのではなく、さらに別の区画へ入り、そこには6門砲の砦がありました。そこで私掠者モーガンは策略を用い、陸側から砦を襲うふりをしました。スペイン側は砦の大砲6門を陸側へ移動させ、その隙にモーガンは突破したのです。
このエピソードはサバティーニの『キャプテン・ブラッド』にも描かれています。獲得した戦利品は約25万ターラーともされますが、分配の結果、1人あたりは前回遠征より半分程度に落ちたとされます。戦果にもかかわらず、各海賊の取り分は200〜250ターラーほどで、決して大きい額ではありませんでした。しかしモーガンの名声は広く知られるようになります。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/ラファエル・サバティーニ『キャプテン・ブラッド』
一方でマラカイボ襲撃の後、私掠者たちは難しい立場に置かれます。なぜなら1667年に英西条約が結ばれ、ジャマイカ総督には私掠許可状(patent)の発給停止が命じられていたからです。
もちろん情報は時間差でカリブ海へ届きますし、総督は「届くのがさらに遅れた」かのように見せて先延ばしすることもありました。それでもモーガンが帰還した後、許可状を更新するのは困難でした。
しかし1670年、スペインがジャマイカ北岸を攻撃したため、ジャマイカ評議会はヘンリー・モーガンに私掠許可状を与えます。ここにも国家機構の弱さが表れています。地方政府が私戦(private war)を遂行する強い意志を持ち得たのです。その結果モーガンは再びトルトゥーガのフランス勢力と手を組み、今度はパナマ地峡へ向かいます。
これが第三の、そしておそらく最も有名なモーガン遠征です。彼らは1670年12月にスペイン沿岸へ接近し、沿岸のスペイン要塞を攻略します。その後、パナマへ向かうための案内人を確保しました。
当時の交通路地図を見ると、パナマへ至るルートはいくつかあり、例えばポルトベロ経由、あるいはパナマ沿岸のチャグレス(Chagres)(現在のコロン市付近)から地峡を横断する道などがありました。私掠者たちは複数のスペイン要塞を掌握し、地峡横断を開始します。案内人がいても進軍は困難で、海賊たちは飢えにも苦しみました。船だけでは全行程を進めず、ついにパナマへ到達して攻撃を開始します。
パナマは新世界でも有数の大都市で、家屋は2,000軒を超え、人口は1万〜1万2千人ほどとされます。守備兵は「騎兵700、歩兵2,000」とも言われますが、おそらく書類上の数字であり、人口規模から考えると実際に常備兵2,700人が駐屯していた可能性は高くありません。
ただし民兵を含めれば2,700という数字が全く非現実というわけでもありません。もっとも都市住民は熟練兵ではなく、要塞防衛では動員されても、野戦で戦うのは困難でした。技量は高くなく、海賊側はもちろん戦闘のプロ集団でした。
結果として海賊はパナマ城壁前でスペイン部隊を撃破し、都市へ突入します。海賊の損害は死者20人ほど、負傷者も同程度とされ、抵抗が非常に弱かったことを示します。この最中、都市では火災が発生しました。
モーガンが自らパナマに火を放ったと非難する声もありますが、戦利品を得るべき場面で都市を焼くのは不合理にも見えます。むしろスペイン側が、海賊に何も渡さないために火を放ち、食料備蓄を焼き払った可能性が高いでしょう。それでも一部の備蓄は残り、海賊は都市で食料を得て比較的快適に過ごしました。一部の海賊は太平洋側で略奪を続けようとしましたが、モーガンはそれを禁じたとされます。
1671年2月、銀を積んだラバ約150頭のキャラバンがパナマを出発したといわれます。ラバ1頭の積載量を最大120kgと見積もるなら、150〜160頭で最大18〜20トンの貨物が運べます(ただし全てが純銀・金だったとは限らず、商品も多く含まれていたはずです)。海賊が計算すると、一般の海賊の取り分は結局200ターラー程度で、落胆したとも言われます。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/ターラー銀貨
さらに重要なのは、「ペソ(peso)」という語の扱いです。スペイン植民地の略奪に関して「ペソ」と書かれることが多いのですが、理論上これはターラーを指す場合があります。一方スペイン語には「ペセタ(pesetta)」があり、これは1/8ターラー(1/8ペソ)に相当し、「レアル(real)」という別名もあります。ただし当時のスペイン貨幣単位には「レアル・デ・プラタ(real-de-plata)」などもあり、単純に混同すべきではありません。もし「ペソ」がレアル・デ・プラタ級の単位を指していたなら、ターラー1枚あたり数ペソ換算になる可能性もあります。
ある証言では一般の海賊が200ペソ、あるいは10ポンド・スターリングを得たとされます。1ポンドは4ターラーですから、10ポンドは40ターラー。つまりこの「200ペソ」はターラーではなく、銀のレアルのようなより小単位だった可能性が高く、ターラーに直すと40ターラー程度しか得ていない計算になります。これは商船隊の水夫が1年少々働いて得る賃金に近く、過酷な遠征の見返りとしては少なすぎると感じられたでしょう。
こうして「モーガンが戦利品を横領した」という噂が生まれます。彼がメイフラワー(Mayflower)号など数隻で財宝の大部分を持ち去った、という話です。しかし海賊は理不尽に丸め込まれるような集団ではありません。おそらく実態は、モーガンがパナマで「ペルーから到着するはずの別口の銀」を期待していたが、それがなかったため、都市住民の財産と地方の金庫の分しか得られず、労力に見合わなかったということでしょう。
とはいえモーガンの名声はさらに高まり、彼はジャマイカへ帰還します。しかしこの帰還は政治的に厄介でした。というのも、彼が遠征へ出る直前、スペインとイングランドの間で1670年のマドリード条約が締結され、両国関係は今後30年ほど落ち着く方向へ向かっていたからです。スペインは事実上ジャマイカを英領と認め、王と政府はカリブ海で関係を悪化させたくありませんでした。
そこでヘンリー・モーガンに対する調査が開始されます。パナマで得られた戦利品が期待より少なかったことも、調査が熱心だった理由かもしれません。スペイン側の文書によれば、その年にマドリードへ納められた資金は大きな損失なく輸送されたようにも見えるからです。
1672年、モーガンはイングランドへ送られ、しばらく軟禁状態になります。しかし最終的にモーガンは免罪されます。イングランドは植民地でスペインを掠奪する「活動家」の行動を黙認することに慣れていたからです。さらにモーガンはナイトの爵位とジャマイカ副総督の地位を得ます。加えて結婚し、1679年にはジャマイカ首席判事の職も得ました。
モーガンは金を酒で使い潰さず、地所に投資して、奴隷労働で運営されるサトウキビ農園を2つ所有するまでになります。帰路の途中、難破で命を落としかけたとも言われますが、それでもジャマイカへ辿り着き、かつての仲間をある程度保護しつつも、一方で公職者としては無制限に庇うわけにはいきませんでした。
1682年、モーガンは再び職権乱用や横領で告発され、人生の暗い時期が始まります。
1685年、イングランドで『アメリカの海賊』が出版され、ヘンリー・モーガンの武勲が描かれました。同じ年、チャールズ2世が死去し、カトリックで親スペイン的な立場のジェームズ2世(James II)が即位します。

キャプテン・ヘンリー・モーガンは実在の海賊か?/エクスケメリン『アメリカの海賊』
この頃には、モーガン自身も「自分は常に立派な人物だった」と強く信じるようになっており、エクスケメリンの出版社を名誉毀損で訴え、非常に高額な慰謝料を求めます。しかし最終的に裁判所は損害を低く認定し、モーガンが要求した1万ポンドに対して、実際に得たのは200ポンドでした。ターラー換算では1万ポンド=4万ターラー、200ポンド=800ターラーです。
その後、ヘンリー・モーガンは公職に戻らず、1688年に死亡します。死因は激しい飲酒による肝硬変だった可能性が高いとされます。彼はポート・ロイヤルの墓地に埋葬されました。53歳で亡くなりましたが、17世紀の基準では比較的長生きした部類でした。
死後のモーガンの運命もまた奇妙です。4年後の1694年、大地震によってポート・ロイヤルは壊滅し、津波が岸を襲ってモーガンの墓は消失しました。道徳家たちは、ポート・ロイヤルがカリブ海の退廃と無法の巣窟だったため、ソドムとゴモラのように神罰が下ったのだと解釈しました。極めて象徴的な結末です。
さらに、モーガンは文学の中に生き残りました。彼が訴えた相手であるエクスケメリンの記述、そして彼の伝記に影響を受けて書かれた作品群、とりわけサバティーニの『キャプテン・ブラッド:彼のオデュッセイ』によって、モーガン像は長く語り継がれていくのです。
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